アニメオタク外人さん
エボシ御前は間違っている
それでも我々は彼女のことを知りたいと思う

アニメーション映画の登場人物は、良い人間であればあるほど関心を集める
映画の悪役にはたいてい同情的なバックストーリーがあり、それを見た我々は彼らを良い人間だと思ってしまう
その悪役が何か悪いことをすると、それまでの感情移入がすべて無効化される


しかし宮崎アニメでは複雑な感情が入り混じっていて悪人と善人両方に感情移入できる
映画『もののけ姫』は憎しみについての話だ

我々はアシタカの視点を通していろいろな対立を目にする
森に足を踏み入れ、その美しさに感動し、シシ神様に畏敬の念を抱く
サンと打ち解けたあとは、猩々、イノシシ、山犬の関係性を知る
アシタカはモロの信頼を得、人間に荒らされた被害を見る
伐採された木、死んだ神々、そして自分自身の人間性を嫌悪し、すべての人間を殺したがっている山犬の女の子

一方タタラ場ではエボシの作った立派なコミュニティ、売られているところを救われた女性、ハンセン病患者などを見る
彼らは自分の仕事に誇りを持っている
エボシをどれだけ尊敬しているか、戦いに対する覚悟があるかをここで知り、エボシがいなければ絶望的な状況だっただろうことを漠然と理解する
山犬の襲撃で愛する者を失った人たちを見、彼女らと一緒に死を弔う

タタラ場と森の戦いに悪役はいない
エボシは森を切って製鉄所の燃料にし、人々の生活を豊かにしている
サンは森を枯らさせないためにエボシを殺そうとする
誰もが自分の愛するものを守ろうとしている
みんな自分の世界の価値観で「善」を行っている
愛するものを奪われた経験のある彼らは、何かを憎まずにはいられない状況に陥っている
誰もが何かしらの罪を背負っている

アシタカはこれを理解し、曇りなき眼でこれを見ようとする
だが彼はどちら側につくか選ぶことになる


・エボシは間違っているから

仮に血で血を洗う争いがなかったとしたら?
エボシが森に入らなければサンに憎まれることもなかった
山犬は攻撃してこないだろう、サンも街を襲撃せず、死者もいなかっただろう

サンが攻撃しないという選択肢もある
その場合エボシが森を伐採し続け、土地は枯れ、空気は汚れ、森は死ぬだろう
森林伐採は「憎しみ」でやっているわけではないが、とにかく森は死ぬ

アシタカが望んでいるのは平和だ
タタラ場と森が対立せず生きていける道を探している
必然的に森に味方するしかない
自然が死ぬと人間と森両方が不幸になるので、彼はシシ神を討とうとするエボシを止める

同時にタタラ場も守ろうとし、できることすべてをやる
そして街の人がエボシに従うのををやめさせようとはしない
しかしエボシを気にかけることは、彼女を自由にさせておくという意味ではない

アニメ映画では同意と共感を同じ意味で扱う傾向がある
つまり「それは間違いだ」という意見は「君のことが好きじゃない」と同じ意味になる
誰かを裁く瞬間は貶すのと同じ
対立している両側に共感するのであれば、それは全員が正しい、間違っている人は皆無だということを意味し、すべてが主観的、すべての戦いは単なるコミュニケーション不足が原因になる


もしエボシとサンが座って会話をしたらどうだろう
争いの原因が単なる行き違いではないことがわかる
ひとつの意見は「森には存続させる価値がある」ということ
もうひとつが「森に価値はないから消えてもいい」ということ

この違いに間はない
中立の意見は存在しない

エボシは間違っていた
一度失えば取り返しがつかなくなるようなものを否定してはならない
しかしほとんどの悪い意見は善人に支持されている
彼らに慈しみの感情を学ばせ、伐採を止めなければならなかった
(※アシタカが止めなければならなかったという意味)

エボシにこう言うことができた
「あなたはサンの家を襲い、母親を撃った。だから彼女はこの争いの責任はあなたにあると言っている」

エボシはこう答えるかもしれない
「私にも同じことが言える。サンは私の家を襲い、部下を殺した。この争いの原因は彼女にある。彼女は私に責任があると言う。誰が正しいのか?」

まぁ、その通りだ
他の動画のコメントからこれを持ってきたい

ダグラス・アダムズは言った
「私の見解では月は岩でできている。
しかし誰かがこう言う
“あなたは月に行ったことがありませんよね? だから月はノルウェー産ビーバーチーズでできているという私の見解も有効です”
この議論すらできない」

真実は意見の影響を受けない
森は問題か否か
我々が介入しなければ森は死ぬ

(※我々というのはアシタカと視聴者のこと)

道徳はいくつかの事実に頼っていると信じられている
生命には価値がある
だから冷酷な殺人は間違っている
痛みや苦しみは和らげられなければならない

人を殺さないということに同意するならば、他人からも殺されない
これが殺人は客観的に悪だという実用的な事実に繋がる
我々の道徳は環境の産物であって、我々の需要と信義は正しいと思うものに影響を与えている


明らかにエボシは森はいくらでも消費していいと信じている
信じる必要があるから信じている
彼女の生活と幸福、コミュニティ全体は森を消費することに依存しているから、森林伐採は道徳的な行いである
それでも正しいか間違っているかの違いが残る

もし本心から信じていないのなら、エボシの信じていることは道徳ではない
単なる功利主義と部族主義だ

これが本当かどうか確かめる術はない
おそらくジコ坊が言っているように「人はいずれ死ぬ、遅いか早いかだけだ」なのかもしれない
すべての偏見をなくしたら、客観的事実なんてものはないとわかる
結局道徳は部族主義に過ぎず、規模が大きいだけの利己主義だ
正しいかどうかは知らん
でも間違ってるなら世界はもっといい場所になってるはずだ


・だから立ち位置を選ぶ

アシタカは森を選ぶ
エボシが間違っているから
しかし彼は憎まない
この争いの原因は憎しみではない

すべての登場人物のうち一番憎しみが少ないのはジコ坊だろう
彼は利己的で勘定高いだけだ
そして最も悪役的でもある


恨みを抑えるだけではこの問題は解決しないけれど、憎しみを捨てることで何が必要なのか見えてくる
エボシは死ななくてもいい
彼女は救われるべきだ

何を言っても彼女は反論してくるだろうし、恩着せがましいと言ってくるかもしれない
それでも「自分のほうがよく分かってる」と言うべきだ

エボシはそれを憎しみだと捉えるかもしれない
「アシタカ、なぜ私を憎む? この映画の3分の1もの時間を使って優しくしたのに。家にも連れて行った、食べ物もあげた、身内だと思っていた。なぜ味方してくれなかった?」


何を言っても憎まれてると思うかもしれない
でもそうじゃない
アシタカは正しいことをしているだけだ

・最後に

俺はこの教訓を『もののけ姫』から学んだか?
わからん
最初に見たのが何歳だったか覚えてない
高校のときか、もっと早かったかもしれない


いつ思いついたのかもわからない
おそらく常に考えてた
俺には問題のすべての面を考える癖がある
誰かが何かを非難していたとしても、そいつが悪役とは限らない

その手の共感はその人物を説明するものではない
あらゆる視点で物事を考えると、見ていて混乱せずに済むよ

困難な作業でもあるが
自分自身にある偏見や今までに見聞きしてきたことを一旦忘れて、何が正しいか考える
そんなことが可能なのか?
傲慢じゃないのか?
もし間違っていたら?
結局何を知ることができる?

それ自体が闘争でもある
やってみなければわからない


アニメオタク外人さん
でもエボシ様が止められたら人が死ぬ
木を切ることで人間社会が成り立ってるから
人間社会より森林のほうが重要だというのは、自然の脅威を強要するのと同じで、定期的に死者が出て人口が制限される

人口に対し食料が少なくなるとどうなる?
狩りを始める
エボシ様がいなくなるとタタラ場は無秩序になる
両者は生存をかけて戦っている
タタラ場より森が重要なのはなぜ?

別の言い方をするなら、エボシ様が間違っているからといってサンが正しいということにはならない

アニメオタク外人さん(主)
>>2
「人類が生き延びる唯一の方法は、すべての木を伐採することである」というのは健全な状態じゃない


アニメオタク外人さん
タタラ場を運営することで住人の貧困を解消させる
女たちを買い取り、ハンセン病患者を絶望から救う
しかし森は気にしない
なぜなら森は女たちやハンセン病患者にとってはどうでもいいから

エボシがタタラ場と同じくらい森を良くできるとは限らない

アニメオタク外人さん
5分48秒で言ってる功利主義の使い方には誤解がある
彼は道徳的ではないと言ってるが、部族主義と並べて原始的な利己主義という意味で使っているなら、倫理的エゴイズムはれっきとした道徳的立場になる

その後で道徳の目的を「生命のため」「苦しみを和らげる」「感覚的な幸福を求める」ためと言っている
皮肉にもこれは彼自身が以前の動画で出した功利主義の基本的な解説だ
この動画の哲学的アイデアはかなり無知で、薄っぺらく見当違い


アニメオタク外人さん
>>5
同意
人々にはもっと哲学が理論的な学問だと知ってほしい
無知を晒す前に自分が使ってる言葉の定義くらいは調べておくべきだ
「森は重要であるか否か」の部分はかなり酷かった
彼は森の意味を定義してない(木? 動物? 生態系?)
問題も意味不明(動物の苦しみが問題? 生態系が崩れるのが問題?)
物理学を知らない人が物理学を語れないよう、哲学を知らないなら語らないでほしい

アニメオタク外人さん
殺人が間違っていて、他人を助けるのは善で、これらは常に正しいということには同意する
でも客観的事実じゃない
第一に認識論的に無意味
実験して証明できるものだけを客観的事実という

実験で証明された道徳的観念は存在しない

第二に道徳に客観性があるならどんなものでも道徳的と呼べる
結局のところ客観性は基準さえ変えればどんなものでもあるといえる
殺人は客観的に悪だといえるなら何であれ客観的に○○だといえる
「ヒトラーは何も間違っていなかった」と同レベルの主張

アニメオタク外人さん
道徳は価値判断でしかない
立場に依存してるから客観性もクソもない
同意できるかできないかだけ
畢竟ただの意見だ
その意見が大きな意味をもつ

アニメオタク外人さん
先週もののけ姫を見た
「これは中立的な映画か?」と思ったわ
両陣営の視点が描かれてて、物事を公平に見せようとしてる
中学のとき初めてこの映画を見たときには「悪役がいない面白い作品、エボシですら悪くない」と思ったのを覚えてる
でも今はエボシが真の問題を抱えていたことがわかった

10 アニメオタク外人さん
最近、悪役はエボシのような悪さであってほしいと思う
ライオンキングのスカーのようではなく


11 アニメオタク外人さん
エボシは間違っていたが、完全に間違っていたわけじゃなかった
森は残すべきだが木を切らずに人間が生きていくのは不可能
トールキンですら「それでもなお木材が必要」と書いた

ある意味サンもエボシと同じくらい間違っていて、アシタカの視点はそれほど公平じゃなかった
彼は自然を崇拝する文化圏から来ていて、サンに肩入れしてる
俺は最大の憎しみは自己嫌悪から来るもので、サンの憎しみはそこが発端だと思う

でもうん、現代基準で見ればエボシは悪者だ

12 アニメオタク外人さん
なんでエボシが間違ってんだ?
説明されてないんだが

言ってるのは「サンが襲ってこなくても森林伐採は行われるが、タタラ場がなかった場合サンは襲ってこない」ってことくらいか

切らない限り森は拡大し続けるぞ
自然の残忍さを放置しておくほうがタタラ場よりも価値があるというのか
自然はエデンの園じゃない
悪劣かつ非情な環境だ
それに比べたら人類のやってることなんて可愛いもの

客観的な事実は、タタラ場が成長することで土地が綺麗になるということ
エボシは最後にいい町を作ろうと言ってるが、どうなるのか映らないから分からない

エボシは正しかった
必然的にタタラ場も正しかった

13 アニメオタク外人さん
パレスチナにも同じ分析ができるだろうか
1つのグループが侵略しなければいかなる殺人も起こらない
1つのグループが反撃しなければ殺人が起こる


14 アニメオタク外人さん
エボシは間違っているが正当だった

15 アニメオタク外人さん
アシタカは男版エボシじゃないか
腰を落ち着けて取り組むときにはいいが、そうじゃないときには利己的な一面が顔を出す
最初に侍と会ったときや毛を逆立てて怒ってるときのように


16 アニメオタク外人さん
アシタカは森を選んでない
彼が選んだのは平和
腕が暴れてエボシを襲おうとするのを止めてた
サン、イノシシ陣営として戦ってない
シシ神様の首を飛ばしたあと、サンがエボシを殺そうとするのを止めた
サンは山犬ではなく人間だと主張
首を返したあとタタラ場再建のため街に戻る


17 アニメオタク外人さん
お前は間違っていた

18 アニメオタク外人さん
もののけ姫のテーマは意見や立場の対立じゃなくて「時の流れには逆らえない」ということ
森の神々は自分たちの時代が終わりつつあること、この戦いに勝てないだろうことを知っている

問題はどう戦うかだけ
そして参戦者の行動、意思とは無関係な力で決着がつく



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